作るを再考、テレパシー時代になっても必要な【行為】の価値

作るという行為。これをもう一度考える時期が来ているのではないかと思います。イノベーションやベル・カーブと呼ばれるプロダクトライフサイクルは存在します。プロデュースや時期や市場動向や売れ行きなど様々な要因があります。

しかし、作るという行為を欠くことはできません。当然、予算を管理することや会社として社会との関わりの中で経済は成り立ちます。でもどこまでも株価のように期待値やデリバティブのような虚構情報が全てを支配する時代になってもそれではあまりにも寂しいのでマトリックスのような世界になっても作る事がすべて情報化されて、モノではなくコトになってもどちらにしても作るという行為だけは残ります。

要するに何かしらを「作る」ために行為が存在して、それを指揮する経営者がいて、管理する管理職の人間がいます。そして実際に作る人がいます。その経営者と管理職が何人集まっても作る行為は乏しいのです。いくら効率的に資金と直結するようにマネタイズできたとしても、本当のところは資本主義の枠組に収まっているだけの話です。まさにアートなどはこの枠を超えることを目的として体よく資本主義に還元させることにあります。しかしここに本当の価値の閾値があります。

本来は作る行為そのものが楽しいです。幸せに行動するから幸せなのです。しているから楽しい幸せという行為が一番最強なのです。要するに共存の世界に生きています。将来的にはテレパシーが通信できるようになりますが、まだまだ物理化された情報が必要です。共存の接点は作る行為でしか生み出せません。念じただけで共有できるようにはなっていませんね。今後はそうなっていきますが、やはりその時代にも作るレベルの念力が上手なものに惹かれるのが人間です。作るこれを軽視してはいけません。そして自分を信じる事でしかその共有接点はつくれません。

作る事に空虚感を覚えたらこのエントリーをもう一度読んでみてください。

失望感に苛まされるのは資本主義の枠組みの中だけであることに気付きます。

その価値に最終的には資本主義でも勝てない【行為】の価値、閾値があるのです。